尾張の国 中村(現、名古屋市中村区)に百姓の子として生を受け、過酷でどん底のような少年時代から天下人まで上り詰めるという、日本のみならず世界史的にも稀に見る大出世を遂げた歴史的英雄、豊臣秀吉。
その出世の陰には、ある仏像との出会いがありました・・・
それこそが秀吉の菩提寺である鷲峰山高台寺 圓徳院(京都市東山区)に今なお祀られる“三面大黒天”なのです。秀吉は13cmほどのこの像を常日頃より大切に携え、遂には天下人となりました。たまふり屋では2017年8月より圓徳院にて開眼供養の御祈祷を施した原寸大複製像の販売を始め、現在もたくさんのご注文をいただいておりますが、その一方で秀吉と同様に、毎日持ち歩ける三面大黒天を希望するお声もたくさん頂戴しております。そこで圓徳院との協議を重ね、遂に皆様のご要望を叶える『三面大黒天懐中念持仏』が完成しました。こちらも原寸大複製像と同様、圓徳院で一体一体開眼供養のご祈祷を受け御精入れしたもので、その証である「開眼供養証明書」が付属します。
圓徳院に伝わる『三面大黒天縁起』には次のような記述があります。“豊臣秀吉公が若い頃、三面大黒天の塑像を見て、請うて心に念じて言った。「私が、もし立身出世して、名声を天下に伝えられることができるなら微塵になれ。そうでなければ形を全うせよ」といって投げたところ、微塵となった。そこで秀吉公は、大いに喜び仏工に命じて尊像を彫刻させて、常に崇拝し、天下を掌握するに至る”若かりし秀吉は“三面大黒天”に己の命運をかけて願掛けを行い、その結果に従い自身の尊像として“三面大黒天”を彫らせ、力の糧としたのです。実際この出会いの後、秀吉の人生に四つの大きな奇跡が起こったのです。
最初の転機は出世栄達の足掛かりとなった「信長の草履取り」の逸話。二つ目は「天下の良妻ねねとの結婚」。三つ目は朝倉義景討伐の際の浅井軍の裏切り=金ヶ崎崩れの「命懸けの殿(しんがり)志願」。四つ目は本能寺の変の後、備中高松から山城山崎まで200kmの行程を僅か10日で踏破した「中国大返し」の奇跡による明智光秀の討伐です。
百姓の出である人物が成し遂げたとは到底思えないこれらの出来事は、何か目に見えない大きな力の導きがあったと思わせるに十分でした。信長やねねという稀有の人物との幸運な出会い、未曽有の危機をものともせずチャンスに変えた胆力。これこそが“三面大黒天”を信奉したことで得られた功徳と加護の賜物だったのでしょう。
太閤秀吉に未曽有の幸運を授け、念持仏として生涯を共にした“三面大黒天”を祀る、秀吉・ねねの菩提寺 圓徳院は、秀吉の出世栄達にあやかりたいと願う多くの人々に信奉されています。本製品は、たぐい稀なパワーを秘めた福の神の姿を、念持仏として携帯しやすい「懐中守り」の形で制作し圓徳院にて開眼供養を施した、たまふり屋でしか購入できない逸品となります。