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| 緒 |
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現在の本圀寺は、京都六条に盛衰した本圀寺の、山科の地に蘇生せる本圀寺であります。近時の変遷には筆舌につくせないものがあります。
山科移転の中興祖故伊藤日瑞貫首の治水工事・再建事業のあとを受けて、現董の久村日鑒貫首は、自ら垂範して歴世各上の資助、吉田宏遠総務の献身、更には護山会の協助を得て、三解脱門の建立等、法労には甚大なものがあります。
現董貫首猊下の依頼を受けて、小衲は、茲に現在より未来の当為としての本圀寺、その法華文化ないし日蓮宗門の史上における責任と使命、そして展望について論明することになりました。
それは、高祖大士の所願、歴代先師の遺風を想起することによって、任運に確認されるでありましょう。
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| 一、 高祖一期の祈請所願 |
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私ども日蓮門下の求法・布教の目的は、一体、何でありましょうか。
端的に申しますと、但信安心・正信斉家・立正安国・地涌教化・衆生成仏・国土成仏、一国同帰・四海帰妙・通一仏土であります。先安生前・更扶没後でもあります。
しかし日蓮聖人は、より直接的で具体的な目的を設定されました。すなわち聖人御一生の間の祈請所願は、一体、何であったのか。このことを、私どもは確認して、自分たちは何ものであるかというアイデンティティー(存在証明)レゾンデートル(存在理由)を確立しておく必要があります。
本山平賀の本土寺に蔵せられている『諸人御返事』(定遺一四七九頁)に左の如くあります。
三月十九日和風竝飛鳥同二十一日戌時到来。日蓮一生之間祈請竝所願忽令成就歟。將又五々百歳佛記宛如符契。所詮召合眞言禅宗等謗法諸人等令決是非日本國一同爲日蓮弟子檀那。我弟子等出家爲主上上皇師在家列左右臣下。將又一閻浮提皆仰此法門。幸甚々々。
弘安元年三月廿一日戌時 日蓮 花押
諸人御返事
これによりますと、高祖一期の祈請所願は、公場対論に決定勝利を得て一国同帰をもたらし、戒壇建立を実現して、門下の出家学匠は主上上皇の授戒の師となり、門下の公家武家は左右の臣下に列座し、やがて四海帰妙を期するというのであります。
この希有壮大なる一大目的(しかし当時の日蓮門下と幕府内部事情との人間関係よりしますと、公場対論と幕府帰依は必ずしも夢想ではなく、かなり現実性の高いものであったと思われます)に対して、私どもは非現実性を見て悲観主義から虚無主義に陥りがちでありますが、しかしその冷静さを保ちながら、それを正しく踏まえて、虚無主義をしっかりと抱きながらも、困難を承知のうえで、未来の一大目的にむかって現段階での可能なる理想を創造して、着実に現実を歩みゆくべきでありましょう。
要するに聖人一期の祈請所願に対して、私どもはそれを精神の内面においてしっかりと紹継するという続種護法の能動的保守主義と、その祈願に向かう可能なる現実的目標を設定して、一つずつ着手してゆくという現実的革新主義とを、双運の行として選択するべきである、と愚考します。
しかも私どもは日蓮聖人の御生涯をロマンある上行菩薩後身の、この世における菩薩の物語、真の歴史(ヒストリイ)として受け取ってゆくべきであります。
かくして高祖一期の祈請所願に対する目的合理性の原点は、求法講経・説法布教にあり、護持正法にある、と結論せられましょう。
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二、公場対論と殿中問答 |
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高祖大士が公場対決をもって本望となし玉うたこと、それは、『諸人御返事』の文にありて、分明であります。
十一通御書の御文言もまた、すべからく諸宗の僧侶をして憤を発さしめて、公場対論を企てしめんと欲するの計策であった、と見られています。
一妙導師の『祖書綱要』に左の如くあります。
故に東寺・天台の真言師を以て公場対論の相手と爲して、彼の真言の事相三密の邪法を打破して此の本門事の三大秘法の正法を建立し、彼の金胎両部の小曼荼羅を打破して此の本門未曽有の大曼荼羅を建立せんと欲す。若し此の大事を顕はさば、則ち彼等弥々畏れを爲して対決を爲す可からずと。故に佐渡以前、破立の大事を隠覆して先づ念仏宗・禅宗等を責め給ふ。
故に『三沢抄』(内の十九の二十三)に云く、「法門の事は佐渡の国へ流され候ひし以前の法門は、但だ仏の爾前の経とおぼしめせ。此の国の国主(我)代をもたもつべくば、真言師等にも召し合せ給はんずらん。其の時にまことの大事を申すべし。弟子にも(内内)申すならば、披露してかれら知りなんとす(△んず)。爾者、よせ召し合せられじ(△よもあわじ)と思ひて各々にも申さざりなし」と(巳上)。
其の中の『鎌倉殿披露の御書』に云く、「抑も正月十八日に西戎大蒙古国より牒状到来す。日蓮先年諸経の要文を集めて之れを勘へたること立正安国論の如く少しも違はず符号しぬ。日蓮、聖人の一分に当れり。未萠を知るが故なり。然る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止め給へ。然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり。速やかに蒙古国の人を調伏して我国を安泰ならしめ給へ。彼を調伏せられん(被)事日蓮に非ずんば協ふ可からず。諫臣国に在れば其の国正しく、諍子家に在れば其の家直し。国土の安危は政道の直否に在り。仏法の邪正は経文の明鏡に依る。(乃至)詮ずる所は万祈を抛って諸宗を御前に召(し)合せ仏法の邪正を決し給へ。澗底の長松末だ知らざるは良匠の誤なり。闇中の錦衣未だ見ざるは愚人の失なり。三国の仏法の分別に於ては殿前に在り。所謂る阿闍世・陳・隋・桓武、是れなり。敢えて日蓮が私曲に非ず。唯だ偏に大忠を懐くが故に、身の為に之れを申さず、神の為、君の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり」と(巳上)。
しかしながら、聖人御在世中には、公場対論による立教決定の機会は来至しませんでした。残念なことであります。
しかるに大聖人の滅後に、北条幕府は諸宗との問答対決をもって日蓮門下の敗北を策し、一挙に日蓮門下の鎌倉追放と宗門禁断を謀ったのであります。
すなわち日朗上人の下に公場対論の命が下りました。しかし朗尊は老齢のため、弟子の日印上人を代理として幕府の命ずる所に赴かせました。日印上人は諸宗を権実論をもって催破し勝利を得て宗門の危機を救いました。人も知る世に云ふ文保二年(一三一八)の鎌倉殿中問答であります。
日朗上人はこの法勲を嘉賞せられて、日印上人に、大聖人より弘安五年十月三日に授与されていたところの、伊豆海中出現の御持仏の立像の釈尊、大聖人御自筆の立正安国論、伊豆・龍口・佐渡の法難赦免状三通と共に、正嫡付法の譲状を譲与されたと伝説せられます。そして三位日静上人に継承せられて代々付法嫡伝して現在にいたったのが、本圀寺に伝わる、いわゆる三箇の霊宝(=重宝)であります。
殿中問答、果たして有りや無しやについては有りであり、霊宝の譲受は真か偽かについては真であると、私は確信するにいたっています。
詳細は『本圀寺史料』六八―五二頁、『法華学報』第三・第四号所収の松吉慶憲師の論文を参照していただきたく存じます。
殿中問答を印師の御弟子の三位静師(一二九八―一三六九)が記録したものが、いわゆる『鎌倉殿中問答』で数本現伝します。了義院日達上人の『鎌倉殿中問答記録略註』も現伝して興味ぶかいものがあります。
私どもの留意するべきことは、公場対決を一大目的とされた高祖大士の所願を紹継して、殿中問答で勝利して宗門を敗滅の危機から救い、変毒為薬して更なる発展へと前進せしめた先師の正気(=正直なる気魄)であります。
諸宗の違目と法華の深義を論談して、求法講経・説法布教に専修した由緒ある先師の流儀に、私は感動を覚えるのです。
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三、 大光普照本国土妙寺 |
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公場対論で勝利を得て一国同帰を策し立正安国を実現するというのは、一妙三秘の中、所観の本門本尊(本果妙)と能観の本門題目(本因妙)との能所一体の信行の上に成就される本門戒壇(本国土妙)を、深信観成より国中現成へと推進することであります。本国土妙、それは本門十妙の中、根本三妙の総別終窮である、と見ることもできます。
本国土妙を理想とする本山寺名は、京都の大本山本圀寺と関東の平賀の本山本土寺であります。この二本山は特別の使命をもった精舎であると思われます。
本圀寺は京洛における吾が宗門の高祖御霊蹟の巨刹として帝都弘教(△弘通)に重きをなした勅願道場であります。建長五年(一二五三)八月、高祖日蓮大聖人が鎌倉松葉ヶ谷に法華草堂を開き、伊豆法難後の弘長三年(一二六三)、大光山本国土妙寺として創設された宗門史上最初の祖跡寺院であります。御法難の為に御出入りはあられましたが、高祖御生涯中の中心となる二十二ヶ年に亘る立正安国の国諫運動を展開された最も大切な布教の根本道場であります。高祖の身延入山及び御入滅後は、日朗・日印・日静の各上人が時の政治の中心鎌倉に在って護山継承され、幕府の強圧と闘いながら正法宣布の使命遂行に当たられました。その御苦労を、私どもは想起し、自らを正さなければなりません。
山号の大光山の大光とは、大光普照の義であり、それは妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となれる本尊の、深信観成し国中現成せる本国土妙・常寂光土を表顕する、と理解されましょう。
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四、 正嫡付法の鳳詔綸旨 |
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私ども日蓮門下は、求法・布教を念頭におくときに、求法という点で正嫡付法(本圀寺)の正念を、布教という点で四海唱導(妙顕寺)の正精進を想起し、付法・唱導の双運の行を復権するべきでありましょう。
ことに自己の正統性の根拠を自覚し、存在証明の原則を確認し、日蓮が一門となりとおす自信と抱負をもって布教化導に専念するために、上行所伝の要法五字の付嘱(=要付)を、本化の正統なる眷属(=正嫡)として自らにとりつぎ(=付法)するという正嫡付法の正念を実あらしめるべきであります。
本圀寺の第四祖の三位日静上人は、祖願(=高祖の願業)および朗尊・印師の遺誡をまもり、高祖より摩頂付嘱を受けられた帝都弘通の上首・妙顕寺の日像菩薩の帝都弘通に併せて、本圀寺を国都双輪の法華道場とする偉功を樹てられました。二大本山の因縁にも先聖諸師の賢慮にも甚深のものがあります。
嘉暦三年、南朝後醍醐天皇の鳳詔綸旨、北朝光厳院の鳳詔綸旨を受け、共に本朝公認の法華宗門の先達となりました。
やがて北条幕府が亡び政治が鎌倉から京都に移って、貞和元年(一三四五)三月、日静上人の時、大光山は光厳天皇の勅諚により、京都六条楊梅に東西二町、南北六町に渉る広大な永代寺領を賜り、鎌倉松葉ヶ谷から京都へ国?護国の大道場本圀寺として移遷されるに至りました。
貞和四年五月十五日、日静上人は光明天皇より正嫡付法の綸旨を賜り三位僧都に任ぜられました。静師は名門上杉の出身であり足利幕府の外戚に当ります。
かくて皇室の庇護と幕府の外護及び大衆の尊信を集めて開花隆盛を迎え、記録に遺る一大華麗な大堂、仏殿、山門諸堂の大成となり、続いて鎌倉より猿畠山法性寺外、四大坊を始めとする末寺諸坊の移建を見るに至りました。
正嫡的伝の綸旨はこれを書き写しますと、左の如くです。
六条本圀寺は日蓮正嫡の道場と為て 殊に閻浮第一の釈迦仏を安ず 今日供養の旨 聞食し訖んぬ 弥々法華の功力を抽て 宜しく四海太平の精誠を致 さるべし者 天気、此くの如し 之れを悉すに状を以てす
貞和四年五月十五日
以後、大光山は、宗門史上にあって付法の道場として、自他ともに任じえたのであります。安土桃山期にキリスト教セミナリオの一団を京より退去せしめたのも六条本圀寺門流でした。
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五、求法講院の再建悲願 |
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平成元年(一九八九)、真宗西本願寺派は龍谷大学の創立三百五十年を迎え、京都深草の地に壮麗な学舎殿堂を完成しました。龍谷大学は記念行事として「人間・科学・宗教」というシンポジウムを張行すると共に、日本印度学仏教学会の開催校となりました。龍谷大学は寛永十六年(一六三九)に西本願寺境内地に設立された安居の学寮に始まります。その西本願寺の寺域は実は日蓮法華宗本圀寺が六条の旧地境内の一部を秀吉の要請に応じて割譲した地処であります。
本圀寺は、本願寺学寮に先立つこと五十年、天正九年(一五九一)、本圀寺学道を改新して求法講院を設立し、一如日重上人を招聘して法華玄義を開講しました。求法檀林となって其の正門は真宗西本願寺と真言宗東寺の方角に開向され、その学風は教相勝劣に立って法華の実教を以て権教の念・密を破折する構えを持続し、学徒は来集したのです。
しかしながら、明治の新宗門の学制変革は求法檀林を廃止しました。本圀寺はしばらく光山学院を設営し、その後は布教院を常設して、何とか光山六条門流の面目を維持しました。しかし昭和初期の本末解体による六百旧末寺の離散、度重なる不祥事のもと、多数の訴訟と借財とにより、絢爛たる宗門史を築いた六条門流の根源本圀寺は、この地に廃亡しました。昭和四十年代のことであります。それは永年にわたる宗門の煩悩業苦を引き受けた懺悔滅罪の行相でありました。拙著『本圀寺史料』を往見して下さい。
しかし本圀寺は特選された先考日瑞上人と山内各上の刻意辛苦および闔宗の協力支助により、高祖七百遠忌を期して、天智天皇の御陵に隣接する山科大岩の聖地に再建復興に着手することを得ました。
今日また現董久村日鑒上人と歴世尊上・山内各上・護山会諸寺院の協助とにより、立教開宗七百五十年を記念して、重ねて伽藍の荘厳を成しつつあります。
本圀寺は、もはや決してこの地より転徙してはならないのです。この地にあって日本、と世界の本国土妙化のための守成充実と興学布教を推進しなければならない使命があります。
光山当局も宗門当局も責任は重大であります。日蓮宗布教院の常設と求法講院の再建、戒壇院の底礎、それは先考の悲願でありました。
光山の学派も教勢も絶えて久しい現在です。円明日澄、了義日達、一妙日導の三上を頂点として絶えて久しい今日なのであります。
よって、布教院と求法講院の二院の常設は、内外より憧憬され強く要望されているのです。私ども日蓮門下はそういう自覚をもつべきでありましょう。
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六、 了義達師の国論講義 |
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破邪の師といわれた本圀寺二十六世、達師法縁の縁祖でもある了義院日達上人は、正嫡付法の義を宣揚し、力あまってか他の諸門にまで是非を加えました。博学洽聞で、叡山の霊空、浄土の法霖、華厳の鳳潭と並称され、教界の三傑とも称された学匠です。幕藩体制下、公場対論の許されない状況にあって、著作をもって浄土の了海を弾し、華厳の鳳潭を挫いたのであります。
達師の名著『安国論講義』の序文には「享保八年十月一日、本圀寺小客殿(名安国院)の元祖尊像の前に於て安国論の講談を始むなり」と見えます。すなわち元祖尊像とは、朗尊が高祖入滅の前、九月二十五日に作り畢り、高祖自ら開眼を加え給ひしと伝えられる生御影像であります。
小客殿を往昔に安国院と名付けたのは、安国論を撰述あそばされた松葉ヶ谷の安国院を京都に引移したからである、と伝えられます。
本圀寺には玄・文・止観・安国論等の講義の慈室として安国院が建立される必要があるでありましょう。
かくして朗門の六条門流の法水に浴せる私どもは「去聖の為に絶学を継ぐ」という志しを新たにしなければなりません。所聞の内容は一乗の正道であり、目的は正道の侶の育成にあります。
本圀寺六条法門に云く、「不識正道多聞無益」と。私どもは過垢の責任と共に、この学訓をも引き受けなければならないでありましょう。
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七、 聖意新紹の本国土妙寺 |
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私ども日蓮門下は、上行の後身たる閻浮の一聖、日本国第一の法華経の行者たる日蓮大士の御意を、日々新たに紹継するための具体的な方策を追求してゆくべきでありましょう。
本圀寺には戒壇の密釈でもある『立正(=三秘)安国(=戒壇)論』が蔵せられています。安国論・諸人御返事・三秘鈔を講讃する大儀があります。本国土妙を顕揚する責任があります。本圀寺に戒壇院を建立し、求法院を開設して、布教院と一体化することも一案でありましょう。
山科の風光は好佳明美であり、清楚端麗であらねばなりません。
今時、小衲は思います。本門の分の戒壇院を欠き、授職灌頂を忘れ去ったわが正統宗門は、内外の知的怠惰・道義的懈惰・倫理的堕落を如何にして止めることができましょう。口舌駄文による小説まがいの通俗的な日蓮聖人像が門下の間にまで蔓延しはじめています。聖意を新紹せる地涌の精神の胎動こそが望まれます。
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跋 |
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重ねて思われます。開宗七百五十年からの当為としての宗門の建案は自明であります。先ず布教院(本門の円慧・題目、信心の相貌、自行化他の題目の元意を確認し、その広為他説を修練する)を充実し、求法院(本門の円定・本尊、その法体と相貌を探求し確認する)を設営し、戒壇院(本門の円戒・戒壇、授戒作法、授職灌頂を研究し実行する)を開設することが、それではないだろうか、と思われるのであります。
本圀寺の色心二法にわたる再興なくして宗門の活生なく、宗門の活生なくして立正安国・四海帰妙の大義は望みえません。
私ども宗門人は、本質的にして積極的な必要条件の整備を先行せしめ、隅有的にして消極的な十分条件の具備は、これを後事に配するべきである、と思います。一善枢軸への求心力を回復するべきなのであります。
私ども日蓮門下は、恒に松葉ヶ谷御小庵本圀土妙寺の歴史を省察し、その伝統の精神を確認し、現在に即する己証をもって、その責任と使命と願業をこそ展望するべきでありましょう。
本圀寺の史料や宝物の格護もまた大切なことであり、宝物館の設営も計画されるべきことでありましょう。
また本圀寺の真実を顕揚するために、歴史の事実を直視しなければなりません。立正大学講師の都森基一先生が史料を調査し、詳細な年譜の作成に着手して下さっています。有り難いことです。
山科大岩の在地は、大化改新をなした天智天皇の御陵に隣接します。本圀寺の現在の地は、宗門改新の本地となる因縁があります。そして改新の本地として現成されつつあります。そして改新の本地として現成されつつあります。今よりは祈念と精進と実成あるのみです。
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